父を在宅で看取ったこと その4 #最期まで生き抜く
肺がんで4年間の在宅療養をしていた父が、86歳で12月に亡くなりました。
父は、このコロナ禍でも入院ことなく、家族に見守られながら在宅で最期を迎えることがでました。
これも一人で父の介護を引き受けてくれた母のおかげです。
それと、母を支えてくれたケアマネージャーさん、訪問診療の先生、看護師さん、訪問リハビリの先生にはどんなに感謝しても足りないと思っています。
それが仕事だから、と思われる方もいるかも知れませんが、「在宅で、家族に見守られながら最期まで過ごさせてあげたい」という皆さんの強いお気持ちがなかったら、入院せずにいられたか分からなかったなと思っています。
私自身は父の介護に対し、何もしてあげることができなかったので、父を忘れない為にも、私が父と過ごした看取りの日々を記録しておこうと思います。
もし良かったら、お付き合いください。
2020年12月15日(日)
肺がんで寝たきりになった父を見舞う。
12日(木)まではベッドに座って大好きな刑事コロンボを見ていたというのに、翌日から起き上がることができなくなり寝たきりになってしまった。
おまけに鼻から酸素の吸入までしていた。
当然、いつか歩けるようになる為に、とやっていた訪問リハビリは中止した。
「大丈夫?苦しいの?」と声をかけると、
「苦しくない」とはっきり言う。
ただ、酸素吸入をしていた方が楽なのだそうだ。
パルスオキシメーターの数値も100%が出ていた。
もう夏ぐらいから、積極的な治療はなくなり、訪問診療と訪問看護を受けている。
母は何度となく、「そんなに長くない」という言葉を医師から言われてはいたが、実感はわかなかったそうだ。徐々に弱っているとはいえ、そんなに急にその時が来るとは私にも思えなかった。
ただ、食欲がないのが心配だった。
12月18日(金)
岩手に嫁いでいる妹と姪が、コロナにびくびくしながらお見舞いに来る。
高校1年生の姪は、小学生の時から1人で長期休みになると泊まりに来ていたのだが、変わり果てた父の姿にびっくりし、怖がっていた。
妹が父に話しかけると、言っていることはわかった様子。父の言葉は不明瞭で妹には理解できないようだった。
妹と姪は、場の雰囲気を明るくしようと父と写真を撮ったりして、近所の人に東京に行ってきたと悟られないよう、早々に帰っていった。
12月20日(日)
ご飯が食べれないので、ここ数日、エンシュア・リキッドを1日3缶ぐらいゴクゴク飲んでいたのに、それもあまり飲まなくなった。
その時は、父の身体が「死」に向けて準備をしているためだとは考えもせず、母と、何だったら食べてくれるんだろう?と試行錯誤していた。
当然のように、医師や看護師さんは、「無理に食べさせないで」と言っていたにもかかわらず
食べない = 死
というのが、私にも母にもはっきりわかっていたので、何とか食べさせられないか、何とか延命できないか、と必死でもがいていた。
そんな二人の気持ちを察してくれたのか、夕方、桃のゼリーを食べさせてみると、
父は、「桃が入ってない」と文句をいい、桃の果肉を要求してきた。
私と母と娘は思わず顔を見合わせて笑い、欲しいだけ食べさせてあげた。
もしかしたら、この穏やか時間は父からのプレゼントだったのかもしれません。
12月23日(水)
久しぶりに、ニンテンドースイッチの「あつまれどうぶつの森」をやる。
今夜は、流れ星が流れるイベントがあり、
「父が年内は生きていますように」
と、藁をもすがる思いで祈っていた。
12月24日(木)
仕事中に母から電話が来る。
医者が、「父はもうそんなに長くないだろう」と言っていた、とのことだった。
慌てて会社を早退し、泊まる準備をして実家に向かった。
酸素の吸入量が増えていた。
痰を自分で出すことができないので、時々痰の吸引もしている。
ケアマネージャーさんの駆け付け、様子をみてくれる。
舌が落ちて呼吸が止まる心配があるとのことで、医師に確認を取り、ベッドを調節して頭を少し高めに保つ。
その角度で寝ていたら腰が痛くならないかと心配になるが、父に話かけても応答はなく、開いている目は空を見つめていた。
時折、眉間にしわを寄せて苦しそうな顔をする。
寒いから布団をかけてやるが、胸のところの布団を強くつかみ、押し下げる。
胸が苦しいの?と聞いても答えはないが、看護師さんは「苦しいせいですね」と言い、医師の指示で張るタイプのモルヒネをお腹に付けた。
私が家に帰れないため、娘2人も実家に来て一緒に夕飯を取る。
父が危篤だという実感はなく、父も、私、母、娘2人でクリスマスイヴを祝う。
昨晩は、父が「ビールを飲みたい」と言った為、母は嬉しくなって梅酒を唇にあてて舐めさせたのだそうだ。
「おじいちゃん、ケーキは食べられないね。ごめんね。」
と言って、ケーキを食べた。
夜9時を過ぎてから娘たちは帰っていった。
私も母も風呂に入らずに早々に床につく。
母は父のベッドの横に、私は隣の和室のふすまを開け、父の呼吸を時折確認できるようにした。
「呼吸してるかな」
夜中に何度も目が覚めて確認するが、幸いにも痰がからんで大きな音がするので、隣の部屋でもよく聞こえる。
喉からの痰の吸引は母でもできるが、深部の痰は鼻からしかできないので、明日、看護師さんにお願いするしかない。
痰が喉に詰まって呼吸が止まったりしませんように、と祈りながらまた眠った。
12月25日(金)
今日は終業式だったので、中学生の娘が昼食を食べに来て、そのまま父のいる居間で勉強していた。
「怖くないの?」と聞くと、
「ぜんぜん怖くないよ」という返事。
私より子どもたちの方がしっかり受け止めているようだった。
午後に看護師さんが来る。
痰を鼻から吸引するが、取っても取ってもきりなく出てくる。
声かけしても反応はないが、痰を吸引する時は苦しそうに顔を歪める。
「応答はないけど、声は聞こえていますから話しかけてあげてくださいね」と看護師さんは言う。
確かに、痰を吸引したり、オムツを替えたり、身体が痛いことをされるときはとても辛そうな顔をする。
そこは、元気な時から、怖がり、痛がり、寂しがりの父だったので変わらなくて、少し笑えてくる。
食事をしていないから当然ではあるが、しばらく便が出ていないので、看護師さんが浣腸してくれた。
今夜も子どもたちと一緒に夕飯を取る。
夕飯後、母が便の臭いがすると言うのでオムツを開けると、黒だか濃い緑だかわからないような黒い液体がオムツにあふれていた。
オムツ替えは大仕事なので看護師さんがいないとできないのだが、このまま放置する訳にもいかず、子ども達の助けも借りながら4人がかりで取り替える。
便は出たというより、だらだら流れている。
肛門付近を触ると、ぐんにゃりと肛門がゆるんでいるのがわかった。
子どもたちが帰った後、父の隣の部屋で寝る。
寝息は昨晩と変わらない。
もしかしたら、このまま年を越せるかもしれないと淡い期待を持って、うとうとした。
12月26日(土)
相変わらず痰の量が多く、取ってもとっても出てくる。
母が、「目薬を指した時、眼球が動かなくてじーっとこっちを見ていて怖い」というので父の目を除きこむと、瞳孔が開いているように見えた。
昨晩の肛門のゆるみといい、瞳孔の状態といい、いよいよその時がきたのかと思うと怖い。
午前11時ごろに看護師さんが来てくれた。
昨晩の便の話をすると早速様子を見てくれ、
「これは宿便が出てきたみたいですね」と教えてくれた。
酸素量、血圧ももはや測定が難しくなり、瞳孔も半分開いているという。
そんな身体の状況に反して、昨日までの苦しそうな眉間のしわは取れて、とても穏やかな顔をしている。
私と母には、昨日と同じ父に見えるが、父の身体は確実に最期を迎える準備をしていた。
人間は突然死んでしまうのかと思っていたが、死期が近づくと、徐々に食事ができなくなり、水も飲めなくなり、内臓も機能を止め、呼吸停止、心停止と、音楽か何かのように緩やかに「無」へと向かっていく。
看護師さんは、
「このまま誰も見ていない時に呼吸が止まってしまっても、誰のせいでもありません。自然なことですから、ご家族が寝ている間に最期の時を迎えられても、ご自分を責めたりしないように」
と言い残して帰って行った。
昼食を取りに中学生の娘が来る。
母は夕飯の買い物に出かけた。
午後3時30分ごろ、父から「ガー」という大きな音がした。
びっくりして、私と娘がかけより声をかけるが、もはや呼吸をしていない。
心臓に耳を当てるが、心音も聞こえなかった。
ああ、なんでこんな時に母は買い物に行ってしまったんだ!
と一瞬取り乱したが、母に最期を見せなかったのは父の優しさかもしれないと思った。
医師からは、「無理やり生かすことは本人が苦痛になるだけ」と言われていたので、心臓マッサージはしなかった。ただでさえ肺が苦しいのだから辛いだけだろう。
数分後に母が帰ってきた。
呼吸の止まった父を見つめる。
本当は最期を自分が看取ってやりたかったろうに。
でも、これで良かったのだ。
最期がいつ来るかなんて、誰にもわからないんだから。
午後5時に訪問診療のお医者さんが来てくれ、臨終を確認してくれた。
夫と夫の母も来てくれて、看護師さんの清拭を見守り、家族全員で父のお気に入りの青いストライプのシャツとズボンを履かせた。
肩を通すのが大変だったが、いつものオムツ替えの時のような辛そうな顔は一切せずに、父はなすが儘に着替えさせられていた。
看護師さんがひげを剃ると、今までの苦痛がうそみたいに、菩薩のような顔になって、まるで眠っているようだった。
娘たちが声をあげて泣いた。
私も母も少し泣いた。
でも、心の中には何かやり遂げた気持ちがあった。
なぜなら、父は最期まで家にいたかったからだ。